大宝神社とは
大宝神社の由緒
同年5月1日には、社名を「大宝天王宮」と勅定され、正一位を授けられました。ご鎮座の経緯については、「神社啓蒙」「和漢三才図絵」「牛頭天王暦編」といった書物にも記されています。翌2年からは、疫病の再流行を恐れ、人々の健康を願う神様への感謝を込めて、4月初子の日を「例大祭」と定めました。同年3月12日には「今宮応天大神宮」の神号を賜り、858〜867年(貞観年間)以降は、密教天台宗と融合した両部神道となりました。
中世における大宝神社の祭礼、特に4月の例大祭や8月の相撲祭、雨乞いの儀式は、近隣50余郷におよぶ広い信仰を集め、綣村生人講を中心に盛大に執り行われていました。また、1713年(正徳3年)の資料からは、本殿を中心に境内社34社が並び、三重塔・大日堂・護摩堂・薬師堂・神楽堂・鐘楼堂・経堂などが建ち並ぶ、神宮寺としての荘厳な境内の様子を伺い知ることができます。
1433年(永享5年)6月18日には、室町幕府第6代将軍・足利義教公が天下泰平を祈願し、神事領として311石の地頭を寄進されました。その朱印状は今も現存しています。また、第9代将軍・足利義尚公が佐々木高頼公を近江へ遠征させた際には、陣中であった上鈎村に当神社の遥拝所を建立させました。その後、1545年(天文14年)には佐々木定頼公により社殿の修復が行われています。
1571年(元亀2年)、織田信長による比叡山焼き討ちの際、神領没収により地頭は上地(没収)となりましたが、天正年間から1606年(慶長7年)にかけての検地では、古来の由緒により免除地として認められました。1629年(寛文6年)8月12日には、徳川将軍家が渡邊山城守をこの地に配し、境内社・日吉神社の燈明田を寄進しました。その後も社殿の修復は代々の家系に受け継がれ、大切に守られてきました。
1659年(万治2年)には足助氏が神主職となり、1713年(正徳3年)には小槻禅珠が官位を授かりました。翌年、別当神應院禅珍は法橋の官位を授かり、京都の百々御所(宝鏡寺)への昇殿を認められるまでになりました。
1716年(享保元年)7月には、宝鏡寺宮の親王の病気平癒祈願を依頼され、ご祈祷により無事に全快されたお礼として、四脚門(築地塀付き)が寄進されました。当初は桧皮葺きでしたが、1788年(天明8年)9月には、御室御所(仁和寺)より紋章付提灯(桜の二引)一対が寄進され、こちらは現在も大切に使用されています。
1868年(慶応4年)3月の王政復古に伴う神仏分離令により、佛眼寺との分離や神應院の院号廃止が行われ、同年4月に社名を現在の「大宝神社」と改めて今日に至っております。
境内案内
大宝天王宮(本殿)
国指定重要文化財
祭神…素戔嗚尊 明治二十七年再建
大宝天王宮は、主祭神の素戔嗚尊を祀り地域の守り神として崇められています。素戔嗚尊は、疫病を鎮める神として信仰され、地域の人々の健康と繁栄をつかさどり大切にされています。ここは日々の祭りや祈願の際に参拝者が訪れ、大神様の力を得て無病息災を願うとともに、最近では「大宝」の名に開運招福を祈願に来られる方もいらっしゃいます。
追来(オフキ)神社
国指定重要文化財
祭神…多々美彦命 一二八四年(弘安六年) 棟札現存 一間社流造 延喜式 式内社 国指定重要文化財特別保護建造物 鎌倉期
追来神社(オフキ神社)は、地主神として大宝年間以前から綣に鎮座し、祭神は伊吹山の多々美彦命です。古くは意布伎神社と呼ばれ、風の神であり、雨乞いの神としても信仰されてきました。中世には若宮権現と呼ばれ、現在もその名で親しまれています。神社名が「オフキ」に転じた理由は、風を意味する「フキ」から来ており、農業や水の神として地域に根付いています。
この追来神社の社殿は明治三十七年に特別保護建造物に指定され、昭和二十五年に文化財保護法の制定で重要文化財建造物になりました。
稲田姫神社
市指定文化財
祭神…稲田姫命 一三七五年(弘安元年) 棟札写し現存 一間社流造 安土桃山期
大宝神社の稲田姫神社は、素戔嗚尊と共に大宝元年(七〇一)に鎮座され、旧名は十禅師宮と称し、三宮とも云われました。大宝神社の本殿を挟んで追来神社と対象になる位置に建つ社殿で、永和元年(一三七五)に再建されました。稲田姫命は、農業の神様であり、特に五穀豊穣更には産業振興の守護神として信仰され、農家や他の産業の人々によって長い間大切に祀られてきました。また、主祭神素戔嗚尊の配神として子授け・安産の神としても崇められ、多くの女性が参拝に訪れています。
文化財
木造狛犬 一対
1900年国指定文化財 12世紀後期 作者 不詳
この木造狛犬一対は、12世紀末に創られたもので、和様を捨てた全く新しい獅子像です。阿形と吽形の組み合わせですが、両方とも無角で、奈良時代風の獅子像としては珍しい例です。阿形は耳を伏せ、吽形は耳を立てて対照的で、どちらも拝者に顔を向けています。前肢は少し引き、反対側の肢を前に出すポーズをとり、上半身が大きく、細身の下半身と四肢が軽快な体つきをしています。たてがみの毛束が威嚇の様子を表現し、唐風の俊敏な表現が特徴です。
今は、京都国立博物館に寄託されている世界に誇る文化財です。
大木造狛犬 一対
1966年県指定文化財 14世紀 作者 祐賢
この大木造狛犬一対は14世紀頃に制作され、作者は祐賢と言われている。特徴的なのはその目にガラス玉が使用されている。元々稲田姫神社内に祀られていた物が、現在栗東歴史民俗博物館に寄託され、貴重な歴史的遺物として展示、保存されています。
神像十数体
2020年市指定文化財 平安~室町時代
大宝神社には、平安時代から室町時代にかけて造立された神像が十数体伝わっております。これらは、長い歴史を誇る大宝神社の歩みや、この地域における信仰の深さを現代に伝える貴重な文化財です。
拝殿
その他の宝物
梵鐘
1671年辻村の冶工 藤原朝臣国松庄左衛門正次の作、梵鐘の側面には大宝神社の由来が書かれています。現在は栗東歴史民俗博物館へ寄託されています。
刀
鎌倉時代の備中の刀工吉次の作。法然の弟子である、住蓮坊・安楽坊の二人が後鳥羽院の留守中に女官を出家させた事で、院は激怒し両名を捕らえ、法然を流罪に安楽坊は六条河原で、住蓮坊は出身地の馬淵の丘(近江八幡市)で処刑された。住蓮坊の母は、息子の最期を見届けようと焔魔堂(守山市)まで来た所武士に刑場までの道のりを尋ねた所、その武士が驚き「今この太刀で切ってきた所である」と答え、更に「この太刀をお渡しします」と住蓮坊の母に渡して立ち去りました。しかし、死に目に会えなかった事もあり、もはやこれまでと近くの竹藪にあった池に入水自殺しました。この刀を、焔魔堂の市村家が保管していましたが、江戸時代市村家に災難が続いた事も有り当社へ奉納され現在に至ります。今も例大祭の神輿渡御では地域の方が「太刀持ち」として大切にご奉仕されています。現在は栗東歴史民俗博物館へ寄託されています。
御神像
大宝神社本殿、追来神社、稲田姫神社にはそれぞれの祭神の神像が置かれています。神像は全て木造で、かつては境内末社それぞれに祀られていたと考えられます。古くは鎌倉時代の物があり現在は本殿及び稲田姫神社の祀られており、一部は栗東歴史民俗博物館へ寄託されています。
御神鏡
大宝神社には三基の神輿があり、それぞれ前後左右の面に一枚ずつ計四枚の御神鏡が飾られています。その一枚に永享十年(1438年)と銘が刻まれており、十二枚全ての御神鏡がこの時代に製作されたものと判定されています。いずれも、直径二十一センチ余の銅製丸型で、河内大椽孟(かわちだいてんもう)の作と言われています。
古文書
1600数点 1400年代以降のものが多数 栗東歴史民俗博物館に寄託